残念感性

ぱんつ多めです

2012-05-02

儚きかな、ぱんつなき人生 - 謎の彼女X 第3話 -

2次元におけるぱんつの置かれた状況というものは決して安寧と称されるものではない。多くの人はぱんつを見ただけでポル産などと侮蔑され、0話切りなど日常茶飯事、作品の存在すらなかったことにされることしばしばである。どれだけ芸術性に優れていようが、社会風刺的であろうが、にんげんだものであろうが、である。

さて、ぱんつアニメとしても名高い謎の彼女Xであるが、この3話においていかにぱんつというものが世の理を表すものであるか、ということをほんの数カットで示してくれた。

それがこのシーンなのであるが、少し説明を付け加えねばならない。なぜならば、卜部美琴がぱんつをはかない変態であるとの誤解を受けかねないからである。

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実は卜部美琴はとある事情、主人公との絆の強さを測るため、ぱんつをはいていなかったわけであるが、偶然にも風が強い日に当たり、偶然にも主人公の目の前で神風の術が発動したわけである。これは事故なのである。

が、本題はそこにはない。

よくよく見ていただければわかるとおり、ぱんつはいていないのでお尻が丸見えである。丸見えなのだが、なにか物足りない。卜部美琴はボリューム感のある体つき、肉々しいという表現が合う女性であったはずなのだが、なんとも貧相なお尻である。このような描写は何を指し示すのか。

彼女の趣味(武器)ははさみであることについては前回の記事に起こした通り。そして、はさみの格納場所はぱんつであった。つまり、はさみぱんつというアイデンティティがそこに示されていたということである。しかし、今回の事案はぱんつはいていない、ぱんつがないわけであり、はさみは鞄の中にしまってあった。

これは、ぱんつのない人生においてお尻なんぞに意味はないということ。ぱんつがあってこそはさみをはさめるのであって、ぱんつがなければはさみははさめない。はさめないはさみなどはさみではない。つまり、卜部美琴が卜部美琴でなくなるということ、まさにそのことをこの尻描写で示していたのだった。

謎の彼女Xの演出の奥深さにただただ平伏するばかりである。

2012-04-19

はさみとぱんつの関係 - 謎の彼女X 第1話、第2話 -

深夜アニメの醍醐味とはぱんつとの出会いである。

今期のぱんつ描写の中では抜きん出ている謎の彼女Xであるが、ヒロインの卜部美琴の趣味「はさみ」の格納場所でもあり、はさみが必要となるシチュエーションにおいては必然的にぱんつシーンとなる。世に数多のぱんつあれど、はさみのために見せられるぱんつはこの世において一つしかない。

ぱんつにはさみを挟むという状態を考えてみると、歩行、着座等、日常生活に支障をきたすのではないかと推察される。それを差し置いても挟まねばならぬ事情というものがあるのであろう。致し方あるまい。しかし、ポジショニングが悪ければ最悪流血事となりかねない、危険極まりない行為であることは明白。そこでどのポジションがベストなのかということを検証してみようと思い立ち、1、2話を最視聴した。


2話において、ヒロインの趣味がはさみであることが明かされ、ぱんつに挟まれていることが明示されたわけだが、実は第1話におけるぱんちらシーンにおいてもはさみが描かれており、既に1話にて回答が描かれていたのだった。しかしここでさらに看過できない映像に気付いてしまったのである。以下の画像を見ていただきたい。

1話のぱんつシーン。はさみは体の真横に差し込まれている。
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2話のぱんつシーン。1話とは異なり、はさみの位置が前方に移動している。
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日常生活においてぱんつにはさみを挟むことで来す支障を減ずるには、1話におけるポジションが最も適切であると思われる。しかし、2話においてその位置を前方へずらしたのは、正面からという構図を考慮した結果と見るのが妥当なのであろう。しかし、それだけなのだろうか。

よく見るとはさみの先を外側に向け、斜めに差し込まれている。こうしておけば歩行の際、多少擦れることはあってもハサミの先が刺さるようなことはない。なるほど、実によく考えられたポジショニングだ。1話がホームポジションとして、2話のそれはセカンドポジションとしての位置であるということがわかる。セカンドポジションからホームポジションへの移動はどうするのだろうか。スカートの上からずらしていくのだろうか、それともスカートの中に手を入れてずらすのであろうか。

なんなら、僕が手伝いましょうか?

2012-04-15

ニーソは膝を隠す - さんかれあ 第1話 -

前説

胸の谷間が眩しいれあちゃんに心奪われる御方続出のさんかれあ。「無防備=お嬢様」という記号であるのだが、実は脚の描写にこの作品の意図が隠されていたことに脚好きの皆様は気付かれたであろう。

時系列を追って脚描写を見て欲しい。

脚描写の変化

1 アバン

図1-1
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ニーソが眩しいれあが叫ぶ。

図1-2
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れあ登校シーン。やはりニーソ。清楚極まりない描写。

2 主人公の幼馴染、わんこ

図2-1
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ソックスをはき、肌の露出が増える。色は白。

図2-2
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羨ましい。あててんのよとの合わせ技。

図2-3
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ぱんつ、はいていない系だったか。

3 再びれあ

図3-1
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アウターはアバンと同じでもニーソははいていない。

図3-2
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あ、これ、いいっすね。

脚演出の意図とは何か

以上から見えてくるポイントは、ソックスに関する2点の変化であることがわかる。

  1. 長さの変化
  2. 色の変化

長さの変化

図1-1にて、ニーソの少女が人に言えない事情を抱えていることを示し、図1-2にて、他の2人がニーソをはいていないことで、お嬢様校である散華女子学園の中でも特別にれあが清楚可憐でおしとやかなお嬢様であり、躾が行き届いていることを説明している。ニーソにより膝を隠すことによって、れあの家庭には何かしらの事情、問題があること、もしくは何かの枷を嵌められていることが示唆されている。

図2-1から始まる主人公に近しいわんこの一連の脚描写は、膝を晒すこと=主人公に気を許すことを示すとともに、二人の関係性が良好であること、主人公が信頼に足る人物であることを示している。

図3-1において、れあはニーソをはいていない。この後主人公との邂逅により図3-2のような痴態を晒すまでに心を開くわけだが、ニーソどころかソックスすらはいていないことで、れあの心の変化というものを示唆していたといえる。

この「ニーソ → ソックス → はいていない」までの流れから、主人公およびれあの人となりと、これからの二人の関係性についてを説明していたことがわかる。

ソックスの色

再び図1-1、ニーソは濃紺(≒黒)色である。これはすなわち心の闇を示しており、図1-2により、普段の生活で常にその問題を抱え、悩まされていることが示される。

一方、図2-1、2-2に見えるわんこのソックスは白。主人公に心を開く白。あなたを信頼し、あなた色に染まるという白。わんこが主人公に持つ信頼、好意を示している。ワンポイントあるのは、そうは言っても無個性ではないということ、彼女の個性というものがこれからの物語で何かしら寄与するものがあるということが読み取れる。

図3-1にて、れあは何もはいていない。むき出しの自分を示す。図2-1、2-2のわんこの白ソックスから図2-3のはいていない画が、このれあのソックスはいていないに繋がっていることは明らかである。つまり、れあがわんこと同様、主人公に対し近しい関係となる、ということが示唆されているのである。

この「濃紺 → 白 → はいていない」までの流れは、ソックスの長さで示された意図とともに、れあの持つ問題がいずれ主人公によって解決されるということが読み取れる。

まとめ

以上見てきたように、さんかれあ第1話における脚描写はこれから始まる物語の主要登場人物のキャラクターおよび相関性の説明という重要な役割を担っていたといえる。いわゆるフェチ描写が下腹部への血流を促進させるためだけに存在せず、物語の根幹を担っているというところにこの1話の素晴らしさというものがあったのではないだろうか。

はいていない、いいですね。

2012-03-20

構図により歪められる脚とフェティシズムの否定の意味 - 輪廻のラグランジェ10話 -

好評につき2期決定となったらしい輪廻のラグランジェ。第1話における記事「人類が背負いしぱんつへの業」にてラグランジェが提起する問題について触れたのであるが、10話において、このアニメの本質というものが明らかになった。

時系列としては後になるが、まずはこのショット、腰の位置についてよく見ていただきたい。
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百聞は一見に如かず。どれが誰の腰かは言うまでもないだろう。キャラクターの描き分けがなされており、しっかりとキャラを立てながらストーリーを紡いできた成果がここで確認できるわけである。早々に2期が決まるくらいだから、たぶん。

とまぁ、これだけのことであればわざわざブログなんかに書き起こすような内容ではなく、「あー、まーいーんじゃないですかねー」程度で済むアニメであるわけだが、実はこの10話には、とある意図が隠されていた。それは私が1話にて認識した問題に対する回答ということでもあった。

以下の2枚の画は田所からまどかには秘密にしておけと指示されるシーンである。身体的な差異が顕著なふたりが並び立つ。腰の位置と太ももの太さについてよく見ていただきたい。
背面からの画。腰の位置が高い方がランである。太ももの太さはほぼ変わらない、若干ランの方が太い印象を受ける。
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次に正面からの画。ムギナミの腰の位置のほうが高くなっている。太ももの太さは、若干ムギナミの方が太い。脚の角度も違っているがまぁこれは良い。
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最初に示した画が本来の設定による差異であるのだが後2枚はそれとは全く異なる。同一シーンによるカメラ位置の違いは構図のために設定を歪めたようにも思える。ヘタをすればミスとして誹りを受けかねないにもかかわらず、設定を歪めてまでその差異を逆転させた意味とは何であるのか。そこまでして何を伝えたかったのか。


1話のぱんつ描写における違和感とこの10話における脚描写の違和感から、フェティシズム要素(ぱんつ、脚)を括りだして捨て去ると「違和感」だけが残る。そう、輪廻のラグランジェ1クール目はこの違和感というものを描いてきたのである。後2枚のシーンはまどかがいない。まどかが欠けることによって3人のバランスが崩れるということを、この脚描写によって示唆していたのである。1枚目の画をもう一度見ていただければわかると思うのだが、まどかがいることで3人が3人足りえるのである。この10話において、ランとムギナミそれぞれの友人関係を見てまどかが違和感を持つことが描かれていたが、最終的には2人の元へ走り出す。3人であることの安定感が、1枚目の画に描かれ、後2枚の違和感がそれを表していたということがわかる。

同じ観点で1話を振り返ると、この「違和感」というキーワードが見事にマッチする。あのぱんつ描写の違和感は、まどかの今までに対するこれからの違和感であるということ。それを見事に描写していたのであった。

輪廻のラグランジェにおいて、フェティシズムは完全に否定されたのだと受け取る。いや、フェティシズムによって好奇を誘導しながらも、敢えて崩すことによって性的欲求の道具に堕することなく、高度な演出として機能させているのである。

2012-03-11

「見える」ことと「見る」ことの違い -ハイスクールD×D 第9話 -

視覚という感覚をアニメーション、いや、アニメーションのみならず、映像として表現することの難しさは、カメラを通した擬似視覚によって情報が伝達されるという点にある。我々は睡眠時以外は常に視覚情報を取得しているわけだが、その情報処理を適度にサボることによって脳使用率を抑制し熱暴走を防いでいるわけである。しかし、擬似視覚で得られる映像情報というのは、その情報の取捨選択が自らの意思で行われていないと言える。

これを言語で表すため、「見える」と「見る」とで使い分けることにする。「見える」とは視覚情報を取得しながら捨てている状態、「見る」とは視覚情報を取得しその情報の分析、他機関への伝達等の処理を行なっていると定義付ける。

さて、ハイスクールD×D第9話においてイッセーと小猫ちゃんとの会話シーンを見て欲しい。
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賢明な紳士諸兄には既にお分かりかと思うが、小猫ちゃんのブルマ3パターンに「見える」と「見る」の違いが現れていることがわかるであろう。

左の画、ブルマの描画面積は微々たるものである。このシーンではイッセーは小猫ちゃんの方を見ずに会話していた。
これは単にイッセーと小猫ちゃんの位置関係を示すための情報として提供された絵であることがわかる。視聴者である我々の「見える」という状況にほかならない。

中央の画、ブルマの描写面積が広く取られている。イッセーは小猫ちゃんの方を振り向き会話をしていた。
ここで視聴者の視点がイッセーの視点として切り替えられる。イッセーと同じく我々も小猫ちゃんを「見る」のである。であるから、当然、局部に視線が集中するわけである。

右の画、左の絵と比較すればわかるように、ブルマの描写面積をしっかりと取っている。引き続きイッセーは小猫ちゃんの方を振り向き会話をしていた。
実はここが最も重要なシーンである。左の画と同じような構図であるにもかかわらず、ブルマの描写面積が異なる。これは何故か。イッセーと小猫ちゃんの信頼関係を確認する重要なシーンであったことも忘れてはならない。つまり、視聴者の視点がイッセーの視点のままであること、小猫ちゃんの局部を見ても良いという信頼関係が、イッセーを通して我々との間にも結ばれたということにほかならない。

この一連のブルマ描写は、擬似視覚による視覚情報の処理を人の目による視覚情報の処理へと変換させる映像表現であったといえる。ハイスクールD×Dの映像的こだわりというものを強く感じた。

しかし、開始直後のこの画はさすがにどうかと思うが。
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あ、いや、部長はそんな間抜けな格好しないだろ的な。

2012-03-05

努力はいつか報われる - 戦姫絶唱シンフォギア6話 -

戦姫絶唱シンフォギアについてはただただ圧倒されるばかりであり、凡夫たる私には到底理解の及ばない作品であるのだが、とあるシーンの意味だけは理解することができたので筆を執ることにした。

一度関係が壊れる前、未来と響きが多少の違和感を覚えつつも、仲睦まじくお風呂に入った後の着替えシーンである。
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水着やブルマのハミケツを直すシーンは嫌というほど描写され尽くしており、深夜アニメにおける日常風景と言っても過言ではない。ブラの装着シーンも手垢まみれだ。このシーンもブラを付けるシーンであるのだが、何か違うとは思わないだろうか。いや、あまりに自然過ぎて逆に気が付かないのかもしれない。このシーン、ブラのカップに乳房を寄せているのである。寄せて上げてを描いていたのである。

いや、そんな事わかってるよということなかれ。僕の数少ないアニメ視聴経験からすると、これほど丁寧に寄せてあげたのは初体験である。

では何故わざわざ寄せて上げなければならないのか。中の人とリンクした立派なおっぱいの持ち主である響に対し、無意識下での対抗心がそうさせるのであろう、これまた中の人とリンクした未来のおっぱい。大きければいいというものではないのだが、やはり意識してしまうということなのであろう。響のことを知っておきたい、隠し事なんてしてほしくない、私と響は一心同体なの的な思いの強さを表している。

この後、二人の関係は雨降って地固まるわけだが、それはこのシーンに象徴されていたのである。

2012-02-28

エロティシズムと過剰描写

ストライクウィッチーズ、ルッキーニの縞ぱんをじっくり見て欲しい。拾い物ゆえ画質は悪いが、まずはその中心部分をよく見て欲しい。なかなかの逸品である。
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さて、ルッキーニのぱんつでニヤニヤしましょうというのではない。ここではエロティシズムとその描写方法について、何の結論もないくだらない話をしたいのである。

原罪というものがあるとするならば、ストライクウィッチーズのぱんつにおけるその描写手法にほかならない。パンツじゃないという言葉で免責されるとはいえ、土手を、筋をという、あまりにも過剰な描写がまかり通る昨今、エロティシズムとは何かということを今一度考えなおさねばならないのではないか。

そういった現代パンツの潮流を意識しつつ、下図を見ていただきたい。
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C3いいんちょさんのあられもないシーンであるが、臀部を注視していただければ分かる通り、土手や筋といったものが隠蔽されているにもかかわらず、このパンツ描写は尋常ならざる淫靡さで迫り来る*1

人間は考える葦であると異国のおっさんが言っていたらしいが、見せることがいわゆるサービスであり、より刺激の強いものがより喜ばれ、よりいやらしいものだという誤った考えが、我々の想像力というものを奪っているのではないか。アニメにおいては人間の五感のうち視覚と聴覚しか刺激できない。残り3つをどう感じさせるのか、という点において、リアル志向を取るのか、それとも想像力に任せるのか。

いいんちょさんのこの姿をみてわかることは、エロティシズムというものは直接描写に依るものではないということ。視覚情報と、見えない部分を創造することによる相乗効果というものが期待できるということである。

まぁ、いいんちょさんも十分過激な描写なんですけどね。

*1:臀部下方に見える縄による効果は否定できないが